2004/09/02



神功皇后の煌めき(完全版)


大倭国(やまと)がその勢力を拡大して全国をその支配下に置いていく様子は、日本武尊の物語の中に凝縮されているように感じています。景行天皇=大足彦忍代別天皇(おおたらしひこ おしろわけの すめらみこと)の息子である日本武尊が、大将軍として全国を転戦した話はあまりにも有名です。ヤマトタケルなくしては、日本列島の各地に根を張って成長した独立勢力である多くの豪族達を、「やまと」の下にまとめ上げることは不可能だったに違いありません。「やまと」による日本列島統一という偉業は、日本武尊の力に寄るところが極めて大きなものであったと日本書紀を読んだ人なら誰でも感じるだろうと思っています。


しかし、このヤマトタケルの話は真実を現したものではないという意見があるのもまた事実です。この説に従えば当然の事ながらヤマトタケルは実在の人物ではありません。当時に生きた多くの名も無き(あるいは名のある人も)武人達の集合体であるというのです。つまりは日本国統一のために血や汗を流して奔走した、あるいは活躍したであろう、数え切れないほど多くの兵士たちの逸話を一人の人物に集大成した物語という事になります。実のところ私も以前は同じように考えていました。


確かに日本武尊の活躍を「ヤマトタケル英雄伝説」として架空の物語であるとする説は一見すると正論のように感じます。でも何となくですが、架空の物語であるとする説には感覚的に納得できない部分を感じていたのも事実だったのです。勇者ロトさんの「崇神朝の謎」を読んだ時にヤマトタケルは実在の人物であるとした方が遙かに整合性を持てると感じたのです。


確かに一人の個人が日本列島を九州から山陰、更には関東まで平定するのはものすごい困難が付きまとうのは当然だと思います。しかし、いかに記録(伝承)されている内容が困難だからとしても、それを理由にしてヤマトタケルの巡幸が不可能であり架空の物語であると決めつけられるわけではありません。一人の超人的な意思力によって異民族を制圧し、空前の大帝国を作り上げた実例が世界史では既に紀元前に存在しているのです。ギリシアのマケドニアに生まれたアレクサンドロス大王の名前は余りにも有名です。彼は僅か33歳でその生涯を閉じたにも拘わらず、ギリシア世界からインドに至るまでの広大な空間を転戦し続け勝利を収めているのです。昨年有名になったアフガニスタンの南部にある都市のカンダハルは彼によって建設されたと言われています。


アレクサンドロス大王の例から考えても、日本武尊のとった行動範囲は物理的にみて決して不可能なレベルではないと判断出来ると考えています。勿論、日本武尊は皇子にして大将軍として行動しているのですから、単身もしくは水戸黄門漫遊記のように数人で全国を渡り歩いた訳ではありません。若き将軍が地方勢力の制圧に向かうからには、アレクサンドロス大王と同じように「やまと」の最強軍を率いていたはずだと考えられるからです。彼の従者とは強力な軍隊を持っていた久米氏や吉備氏ですから、これは信長が家康や秀吉を従えて全国を転戦したようなものと考えれば分かり易いと思います。


信長の下に秀吉や家康がつき従うというのは彼らが指揮している軍団を同時に連れて行くという事です。これは古代統一戦争においても全く同様と考えるべきなのです。あるいは徳川秀忠が3万人以上の軍勢を率いて中山道を関ヶ原に向かったようなものなのかもしれません。いずれにしても全国統一戦に出発した日本武尊に軍事貴族がつき従っているのは当然のことであり、相当数の兵力を持って東国平定に出かけたものであると判断すべきだと思っています。


日本武尊が超人的な人物として描かれている理由を考えてみると、敵方の真っ直中で行われている宴会場に単身、もしくは供の者を少数つれた程度で乗り込んでいく事が出来る剛胆さを持っていたからだろうと思っています。大将軍や大将の身分にありながら単身敵陣に乗り込んだという例は、毘沙門天の化身であると言われた上杉謙信の川中島の戦いにおける「伝説」以外には存在していないのです。当然のことながら日本武尊は剣術を含めたあらゆる格闘術に相当の腕前を持った人物であったのだと思います。


世界最大級の前方後円墳という人工の構造物が関西平野の地に造られた歴史は1200年以上経って秀吉により再現される事になりました。大坂城という世界最大規模の城が大阪という同じ場所に建造された事実を思うと、天下統一を果たした秀吉の行動が正に歴史の繰り返しであったような錯覚を覚えるほどです。巨大な人員動員力を備えた政権があればこそ大坂城築城は可能でした。同様にあれほど巨大な古墳を作り出すには、たとえ1200年前であっても莫大な人員の動員が必要になるのは全く同じことなのです。建設における動員力は兵力増員力と同じものなのです。


巨大建設が可能になった背景は、ヤマトタケルの活躍によって統一を果たした大倭の力が、豊臣政権と同じように超巨大な軍事力を備えた存在であったからだと考える事が最も整合性を持った推論だと思っています。秀吉のように、全国統一を達成する程の超強力な権力と財力と兵力が伴わなければあのような巨大な物を作り出す事など、「夢のまた夢」なのは小学生でもわかる理屈だからです。人間の意志力は歴史に大きな力を与えることが出来ます。しかし、思っているだけでは何も実現することなど出来ないのです。天下統一を成し遂げたパワーは統一により更に集中されてその力を増大させて行きます。この様にして、大坂城を作り出し「唐入り」として海外に兵力を送るほどの超巨大なスケールになっていました。


島国である日本列島の最大権力を得た大豪族「やまと」が、海を越えて朝鮮半島と政治的な関わりを持つようになったきっかけは日本書紀に描かれています。有名な神功皇后の三韓征伐がこれに当たります。神功皇后とは日本武尊の息子である仲哀天皇=足仲彦天皇(たらし なかつ ひこの すめらみこと)の皇后である気長足姫尊(おきなが たらし ひめの みこと)こそが神功皇后と呼ばれる人物なのです。彼女は開明天皇の曾孫であり、この血統を有しているからこそ「皇后」になれたのです。また「おきなが」という名前からも彼女の所属していた集団が「海の民」であることが伺われます。


仲哀天皇が反乱を起こした熊襲を征伐するために九州に向かった事が「おきながたらしひめ」の伝説の始まりでもありました。熊襲とはどう考えてみても神武天皇に付き従った隼人の地元に残った人たちの末裔にしか思えません。あるいは神武天皇東征の時に隼人は二つに分裂したのかもしれません。そのために「つちくも」「えみし」などの言葉と同じように、自分たちに「まつろわぬ」からこそ「熊襲」という言葉が使われ始めたのでしょうか。一種の近親憎悪のようなものなのかなという気がしています。いずれにしても、景行天皇は熊襲に対して騙し討ちをしてようやく勝利を得ることが出来たのです。ヤマトタケルにしても父親と全く同じように騙し討ちにより相手を倒しただけのことでした。


「やまと」の勢力拡大の最大の理由とは「恭順すれば滅ぼさず」という相手勢力を組み込んでいく方式にあると思います。ところが熊襲にはこの方式があまり効果を発揮しなかったのかもしれません。調略という手法が効果を及ぼさない相手だったために、一転して徹底的に相手を叩きつぶすという戦法を採ったでしょうか。この理由は、彼らが「やまと」と同格の血統を有していたからなのかもしれません。


仲哀天皇に残された仕事と言えば日本統一をより強固なものにすることであったと思います。そのための九州出陣だったはずなのです。熊襲を従わせる事とは祖父の景行天皇から始まって父親の日本武尊、そして自分へと三代にわたる大事業でもありました。しかし熊祖が従わなかったというのは立場を変えれてみれば当然とも思われるのです。何故ならば彼らは「やまと」による「騙し討ち」という卑怯な手法で肉親を殺されているからです。これでは相手に対する恨みや憎しみが増すことはあっても、親しみを感じたり相手に従おうなどと思う気持ちが起きるはずがないからです。熊祖側としては遙かな過去は別にしても、現在では「やまと」を不倶戴天の敵だと感じていたように思います。誰でも自分の父親を騙し討ちにされて従うわけがありません。この点からみると、本来ならば是非とも懐柔すべきだったはずの相手に対する景行天皇の判断は愚かであると思います。日本武尊の採った戦法もまた、大胆さだけが表面に現れただけの愚かな選択であったと言わざるを得ないのです。


九州に到着した「おきながたらしひめ」は強烈な天啓を受けたのでした。これはジャンヌ・ダルクが神の啓示を受けたものに極めて近いものがあるように感じています。インスピレーションの究極のかたちとは神の言葉を啓示として具体的に感じる事であり、それは時空を超えて現れるものなのかもしれません。


玄界灘という巨大な障壁を越えて出兵する事が可能であったのは、「やまと」による全国統一が日本武尊によってなされために巨大な軍事力を有するようになったからだろうと思っています。いくら「気長足姫尊」の神託が強烈なものであったとしても、物理的や能力的に不可能なものはどのようにしても出来るはずがないからです。神功皇后の神託を可能に出来たという事は即ち「やまと」がその時点で軍事的実力を備えていたという事になります。これは西暦でいうと4世紀半ば頃に当たりますから、考えてみると(考えなくても??)ものすごい出来事だと思います。


もっとも、人間の個々の能力は1000年や2000年経ったとしても、それ程大きく変化するわけではありません。今から1000年前の平安時代に生活していた人よりも、自分の方が優れていると感じるのは完全な思い込みだと思っています。社会システムや科学技術の発達によって、現代の私たちは過去の人達よりも恵まれた環境に生きていますが、この事と個人の能力とは全く別物であるからです。例えば、各部族で伝えてきた「伝承」とは語り部の頭脳に記憶されたものですが、現代人なら誰でもが彼ら以上に伝承を記憶出来るできるわけではない事からも明らかだと思います。


明治に至るまでに日本列島から玄界灘を超えて朝鮮半島に戦線を展開した例を挙げてみると、中大兄皇子の「白村江の戦い」や秀吉の「唐入り」などほんの数回しかありませんでした。一方、大陸側から日本列島へ侵略してきた例にしてもユーラシア大陸を席巻した元の指揮の下にたった一度あるだけなのです。このように大陸と日本列島を隔てた天然の大濠である「海」は巨大な防御力を持っているのです。この極めて防御力の高いバリアを超えて相手側世界へ軍勢を繰り出すには、想像を絶するほど超絶したパワーが必要にされるのです。特に「人力の時代」にはこれが100パーセント当てはまると考えています。島国である日本からみても、あるいは朝鮮半島側からみても、この大自然によって作られた海原はとてつもなく大きな境界線であったのです。これを超えるためには極めて強大な国力が必要とされたわけです。


ちなみに茨城県が明治維新以降、昭和後半に至るまで後進県であった理由も同じようなものなのです。つまり、利根川の広大な川幅が巨大な壕として東京と茨城の間に立ちふさがっていたからなのです。利根川の下流部は自然の壕としての能力が高すぎたために、これを乗り越えるには多大の資本投下が必要だった事が発展を阻害した大きな要因に上げられています。


朝鮮半島には有史以来数え切れないほどの侵略があったといわれています。しかしそれが日本列島にまで及んだ例が僅か1度しか存在していないのは、「海」を超えて兵力を送ることがいかに困難な事柄であるかという事をはっきりと私達に示していると思っています。また戦略上から考えても退却路を絶たれる可能性があるところに軍団を送るというのは、軍勢が全滅する可能性が高いわけですから、このような点から考えても上策ではありません。


漢民族を中心とした東アジア世界とは農耕民族と北方遊牧民族の角逐の場所であり海戦とは無縁の場所でした。また日本海北側に当たる東北部では半狩猟、半農耕民族が活動していた場所になりますから、海戦を行えるほどの全体力が無かったように思います。要するに東北アジア地域では海戦に対するノウハウがほとんど存在していなかったように思えるのです。


いずれにしても歴史上日本列島に対する侵略者の軍勢が到達したのは元だけであり、この事実は朝鮮半島までが大陸世界の限界である事を示しているように感じています。日本列島はその地理的条件のため、にモザイク世界である東南アジア世界から更に孤立(独立)した世界として存在し形成されていくようになったのではないでしょうか。勿論、海外に対してあらゆるチャンネルの交流が皆無だったわけではありませんし、人的交流は古代から続けられていました。ですからこれは決して日本孤立論ではありません。しかし「東アジアは一つ」というイメージは人が移動するスピードを無視したものであり、現代のように短期間で往復できる環境ではなかったという事実の前には余りにもアバウトすぎる虚構のように思われるのです。アジアは各地がそれぞれに独立した存在であり、それぞれが特殊であり、それそれが特徴を持っていた世界であると私は考えています。


中国歴代王朝との交流の頻度を朝鮮半島と比べてみれば、あらゆる面での交流がいかに少ないものであったのか良く分かると思います。これが結果として日本社会が中国社会とは異質の存在である最大の理由なのかもしれません。そして大文明圏から隔離された場所の住人だからこそ、日本の知識人は純粋に中国の文物に憧れたという面が強かったように感じています。これはアメリカ社会に対する憧れが第二次世界大戦以後の日本社会を覆っていた事実とよく似ているようなものなのかもしれません。反米の人にとってもその対象が違っているだけで本質的には相似形だったと思います。これは海外にユートピアがあると信じてきた日本人の持つDNAのなせる技なのでしょうか。


人間の思考を実現するためにはそのためのバックボーンが必要であるのは全てにおける必然の法則です。これは100メートルを最大限速く走るには最も合理的な体の動きが必要になるのと何ら変わるところがないのです。勿論各人の運動能力差によりタイム的には差が現れますが、その人にとっての最高値を出すための方法に差があるわけではないからです。


「鰐浦から出発された。そのとき風の神は風を起こし、波の神は波をあげて、海中の大魚は全て浮かんで船を助けた。風は順風が吹き帆船は波に送られた。舵や楫を使わないで新羅に着いた。」と日本書紀には書かれています。


この部分を読むとますます神功皇后が所属していた「おきなが」グループが海に精通していた集団であると思われてきます。何故ならば、ここに書かれている事柄は本当に実在するからなのです。カツオ等の大群がイルカや鮫などに襲われた時に、襲ったものよりもより大きくて無害な物にぴったり取り付く事が知られています。これは「なぶら」といって襲った相手よりも大きな魚に似せる事によって身を守る方法なのです。カツオ近海漁業者には常識だそうですが、海に精通していない人にとっては分かるはずがない事柄だからです。魚の大群が「やまと」の兵を乗せた船を運んだというのは決して空想的な表現ではなく、事実だった事をそのまま伝えたのだと考えた方が説明がつくのです。それにしてもタイミング良く魚の大群に遭遇するとは神の恩恵を感じたように思います。


新羅までの海路を最短の時間で渡りきるために、決行の日時は周到に計画されていたと考えた方がいいと考えています。強烈な追い風の日を選んで、カツオの大群に船が背負われるようにして一気に進むという戦法は、「海の民」のノウハウがあればこそ可能だった戦法だと思います。また、乗船している兵士達もまた水に慣れ親しんでいる事が、乗組員としての必要条件になるのは当時の技術からして当然であるといえます。島国である日本では主な移動手段が船であったのは間違いがありません。このような水上交通の発達が「水軍」の発達を形成する大きな背景として挙げられるように思っています。


電撃的に新羅を制圧する事に成功した神功皇后は、新羅王城の門に手にしていた「矛」を立てたと書かれています。この事は彼女の一方の先祖である「天日槍」に因んで行われたものなのかもしれないと思われてきます。しかし私はこのシーンを読んで「インデペンデンス・デー」のシーンを思い出してしまいました。新羅という小国家からすると、「やまと」は宇宙から突然来襲したエイリアンのようなものなのかもしれません。いずれにしても、この瞬間から「やまと」と朝鮮半島の政治的な関わりが始まったといえるのです。


「おきなが たらし ひめ」の受けた「啓示」とは神から発せられたメッセージを受け取ったものであり、つまり一種の「閃き」に他なりません。ですから、彼女がその「閃き」の根拠を「たらし なかつ ひこ」にうまく説明出来なかった事の方が、かえって自然であり、整合性を持った話のように思えてきます。何故ならば、神を感じる事が出来ない人にとってみれば、「神託」とは一種の「夢」のようなものである、とまでしか理解できないように思われるからです。つまり、神からのメッセージを受け取る事が出来ない「普通の人」にとっては、これは夢に極めて似通ったものである、という程度までしか理解できるはずがないからです。「神託」として示した事の根拠を合理的に説明する事など初めから無理だと思うのです。話の内容を理性的に理解しようとする相手に対して、理路整然と理解納得させようと説明を試みた結果として、理屈がうまくかみ合わずに矛盾が生じたとしても、その方が当たり前なのです。


しかし、ひょっとしたらですが、神功皇后の神託は大胆かつ極めて綿密に計画されたものかもしれない、という可能性もまた否定出来ないように感じられて来ます。これは急転直下して決定された、「新羅征伐」の圧倒的成功にあるのは言うまでもありません。この神託の真の姿とは「閃き」によるものなどではなく、全く逆に、綿密に計算され尽くした「合理的判断」によるものではないかとも思えてくるのです。このように、色々な方向から推理を働かせて考えるのもまた楽しいものです。この「神託」が合理的判断がつくのかもしれないと考えてみるのは、「インスピレーションの発動」とは180度違った見方になりますが、それでも可能性を追求するのはとても面白いのではないかと感じるからです。いずれにしても、神功皇后の決断によって4世紀の極東アジアの国際情勢が決定されたのは間違いがありません。


日本書紀では「やまと」の兵を率いて来た仲哀天皇のところにやって来た神功皇后が、橿日宮で突然神託を受けたと書かれています。「熊襲征伐」のために九州にまで来ているにも拘わらず、突然「新羅征伐」をしろと神様のお告げを受けるわけです。これはあまりに突然すぎるものであり、普通に考えれば国内統一を目指した(あるいは国内の反乱を防ぐ)仲哀天皇の方針こそが上策であるはずなのです。何故ならば、もし仲哀天皇が海を越えて朝鮮半島への進出を計画していたとしても、その前進基地になるべき九州が平定されていなければ遠征が不可能なのは明らかであるからです。もし九州を平定せずに朝鮮半島へ派兵するという事は、退路を失う可能性が極めて高く安全性を欠くという事になります。朝鮮半島へ渡海した後で九州で反乱が起これば、退路を断たれた「やまと」軍団の壊滅を意味するのは軍事的から考えれば当然の事だからでもあります。


このような理屈を古代に生きていた人が理解できないと考えるのは、古代の人達をあまりにも甘く見ていると思います。朝鮮半島からの侵略に対抗するためというのであれば、その本拠地を叩くというのは理解出来ます。しかし相手にそのような事実(実力=軍事力)はありませんでしたので、無用の外征であると仲哀天皇が判断されてもそれは当然と思えるのです。南原次男先生は「日本の建国史」の中で、仲哀天皇の判断こそが戦略面から見ても最も正しい判断だったと述べられていますが、私も同じように考えています。


しかし、ここで新たに思うのは「やまと」の国力が予想よりも遙かに巨大であったかもしれないという事なのです。例えば、戦国時代を統一した秀吉の下には膨大な兵力が集まっていました。統一戦争を行う以上は、相手に打ち勝ち、更に相手の兵力も取り込んで行くわけですから、最終的には超絶したパワーを手に入れる事になるのです。まるで、巨大になった雪だるまが一回転するだけで、今までの何回分もの雪を集めるてしまうのと同じようなものなのかもしれません。国力の膨張が急激であったために兵力の余剰を生み出していた事は、神功皇后の新羅征伐から1200年の時を経た「唐入り」の時において、大きな動機の一つになったのではないかと見られています。


このように考えると、「新羅征伐」とは兵力の有効活用として以前から暖められていた計画なのかもしれないと思うのです。九州の熊襲を征伐するために遙々「やまと」から遠征軍を率いてきたにも拘わらず、その進行方向を180度変更する事がそんなにも簡単に可能だったとはどうしても思えません。突然の海外遠征が可能だった理由は「やまと」が水軍によって兵を移動させているからだろうと考えています。要するに「やまと軍」の主力とは水軍であったからこそ急な攻撃目標の変化に対応できたのではないかと考えているわけです。それも玄界灘を一気に超える能力を持った船団を保持していたわけですから、想像以上に強力な水軍を保持していたものと考えられると思っています。


いくら古代においては巫女の信頼が私達の想像を遙かに超えるほどに高いものであるとしても、納得するようなものがなければ周囲の信頼を得るのは難しいように思えます。この可能性は否定できないような気がしています。信頼を掴むのは神功皇后が巫女として絶大な信頼を得ていたということよりも、もっと具体的な理由により可能だったのかもしれません。神託の真意とは、熊襲を味方につける事に成功して熊襲水軍も新羅攻撃に加わるという意味だったのでしょうか。「閃き」であろうとも結果が良ければ最高の啓示であるといわれるのです。もしこの結果が失敗に終わっていたとしたら、「白村江の戦い」が300年前に出現した事になり、神功皇后はともかく応神天皇は歴史に名前を残すことは出来なかったかもしれません。


熊襲と新羅は同盟関係(のようなもの)にあったと、外部からは見られていた可能性についてはどうなのでしょうか。新羅の建国神話によると熊襲から王を迎えたとあるくらいですから、当時の実態としても熊襲と新羅とは友好関係にあったと思われた可能性を否定できないように思えるのです。新羅の建国神話とは、神武天皇東征の時に二つに分かれた隼人の一派が朝鮮半島に渡ったという伝説なのでしょうか。神武天皇による東征とは、彼よりも先に新羅や出雲へと勢力を伸ばした「先行した隼人」を追った行動なのでしょうか。


出雲が新羅と親しい関係だったらしいというのは、素戔嗚尊の「国曳き伝説」や地理的環境から色々と推理されています。出雲は「いずくも」から変化して「いずも」と呼ばれるようになったのではないか、と漠然と考えたりしていました。でも、あるいは「いずくも」ではなく「いずくま」から変化した可能性も考えられるのかもしれません(トンデモかも)。出雲と熊襲の関係については良く分かりませんが、しかし、もしそうならば「いでるくま」つまり「出る熊」となり「くまそ」に近い感じがします。「熊」が森林の王者であるという認識は、山国でもある日本列島では何処の場所でも常識だったのかもしれないと思ったりします。


日本武尊の戦った有名な相手は「クマソタケル」と「イズモタケル」という剛の者でしたが、両者に対して彼が取った行動はとてもよく似ています。どちらの「タケル」に対しても騙し討ちにより勝利を得ているのです。ここには現代の私達がイメージする「正々堂々」とは無縁の姿が描かれています。スーパーヒーローにしては余りにも卑怯な行為だとつい感じてしまうのですが、これは現代人の感覚と古代人の感覚が同一ではないという事を正に示しているように感じています。この二つがとてもよく似たパターンであるところからみても、日本武尊に打ち負かされたこの両者は何か繋がりを持っていたような気がします。熊襲を発祥にして新羅、出雲は出身を同じくする者たちが作り出したポリスだったのでしょうか。もしそうなら、これは九州、朝鮮半島、そして山陰地方にわたる巨大なトライアングルを形成していた事になります。


「古代からの伝言3」の中で八木荘司先生は魏志倭人伝の狗奴国を熊野に比定していました。そして「くまの」を神武天皇の本拠地であったように書かれています。私は「くまの」は「くまそ」にとてもよく似た発音であるのをとても印象的に感じました。天孫一族による日本列島統一とは、先行していた熊襲による統一の後を追った行動なのでしょうか。そうなると「やまと」の統一とは熊襲からの「国奪い」に他なりません。これが「出雲の国譲り」の神話として象徴的に伝承されてきたのでしょうか。しかし、彼らは元々は一つの集団であり隼人=熊襲なのかもしれません。もし、そうでないとしても、彼らは極めて近い関係の部族であったことが想像されてくるのです。このような考えを推し進めていくと、日本列島統一で先行していた隼人の一派を追い落としたのが神武天皇の派閥なのかもしれません。神功皇后の新羅遠征は大きな意味で「熊襲」征伐の一環として考えることが出来るような気がします。


勿論、以前にも書いたとおり、もし彼らがポリスを作ったとしても自分たちだけで「拡大再生産」を行ったわけではないはずです。現地化をすれば必ず地域での婚姻をすることになります。このようにして世代を経るごとに「他人」になっていくのです。


神功皇后の活躍した時代とは一体いつの頃に相当するのでしょうか。西暦に換算しないと、世界史的な時間軸の中で日本史を理解する事はなかなか出来るものではありません。これは現代人特有の感覚だといえるのかもしれませんが、基点を定めないと連続した時間の流れを掴みづらいのは誰にとっても真理であると考えています。つまり現代人ばかりでなく、例えば江戸時代に生きた人にとっても、1000年以上のスパンの時間軸の中で様々な事象をトータル的に捉えるのはなかなか難しく感じられたはずだと思います。


私たちが複雑に絡み合った数々の出来事を、なかなか有機的に組み立てて理解できないのは、古代に生きる人にとっても同様だったような気がしています。ひょっとしたらですが、紀伝体と編年体という二つの代表的な記録方法があるのは、お互いがお互いを補完し合うために考え出されたような気がしてきます。もっとも、古代に生きた一般の人にとって歴史とは、自分に関わる部分だけが必要とされたのだと思います。そうなると日本史の全体像とは、「かつての記録」というだけのものであり、一族に伝承されているものがあれば特に不便を感じなかったのかもしれません。


日本書紀における時間の表記は、現代の私たちからみると非常にアバウトに感じられて仕方がないはずです。何しろ、何人もの古代の天皇が100年間も生きていたと書かれているのですから、これを読んだ時点で「おかしい」と感じるのは当然の感覚だと思います。寿命には限りがある、という絶対的な時間制限に関して言えば、古代の方が劣悪だったのは間違いがありません。それは自然環境に対するものであったり食生活に依るものだったりします。現代のように医療技術の進歩した時代ですら、100歳以上の長寿を達成出来る人は希なのですから、古代の環境で100歳以上の天皇が続出するのはどう考えても不自然なのです。


しかし、この一点をもって日本書紀が「ごじゃっぺ」(※茨城弁 ぱんださんの茨城弁変換ソフトを参照のこと)であると結論付けるのは、余りにも性急すぎるものであると思います。何しろ日本書紀が「ごじゃっぺ」であるとするならば、ここからは真実を得る事が出来るはずがないからです。日本書紀に書かれている特定の部分だけを取り出して再構築する事は、極めて恣意的であり、いかに理屈を付けたとしてもダブルスタンダードに陥るように思うからです。要するに、そんな都合の良い方法が許されるのであれば、どんな物語でも作るのが可能になってしまうからなのです。


日本書紀における時間の表し方は天皇の在位に合わせています。これは、その世代に生きた人にとってみれば、同時に時を生きていたわけですから、私たちが考える以上に理解しやすい方法なのかもしれません。特に文字のない伝承の時代にとっては、「○○天皇15年時〜」のような覚え方の方が誤差を少なく出来るものだったのかもしれません。そして伝承はそれを重ねて行く度に少しずつ誤差を生じるものであるとしても、木の幹に当たる本質的な部分に関しては極めて正確に伝えられてきていると思っています。天皇在位何年というのは元号的発想に極めて近いものがあると感じています。


同じ用語(あるいは単語)が同じ意味を持つものであると考えるのは当然の事ですから、同じ意味を持つ必要があります。もし同じ意味を保持する事が出来ないとすれば、いくらこれを読んだとしても、書かれている内容を正確に理解することが出来ないからです。専門用語の場合は特に当てはまると思っています。同じ単語が同じ意味を持たなければ、内容を共有する事が出来ないのですから事態は深刻です。英語のような外国語の場合だと、日本語と徹底的に違っているために私達は初めから「異質」であると十分に認識しています。ところが「漢字」の場合は、古代から全く意味が変わらずに使われてきたものである、と無意識のうちに信じ切っているところがあるのではないでしょうか。


これは同じ漢字を使うからといっても、中国人の使用する場合の単語の意味と、日本人が使う場合のそれとでは違った意味に使われている事に似ているのかもしれません。例えば「東洋」という単語は日本では「東アジア全体」を指しています。しかし、中国では「日本だけ」を意味しているのです。「東洋一」と日本人が言った場合と、中国人が言った場合とでは意味が徹底的に違ってしまう一例がここにはあります。


「年」という漢字に当てはめた言葉の意味が、古代と現代では違っているのは明らかです。「年」という漢字に限らずとも、その意味するところが昔からずっと全く変わらずに同じであると仮定することは少し危険だと思っています。おそらく、古い伝承の時代の「年」という漢字は「季節」という意味合いで使われていたのではないかと思っています。あるいはもっと大まかに「時間」のような意味だったのかもしれません。これは当時の言葉に「季節」と「年」の区別をつけるものが無かったのかどうかを推し計っている訳ではありません。しかし、もし季節という意味を持っている別の言葉があったとしても、「年」という漢字を当てはめてしまった可能性は否定できないような気がしています。よく言われる天皇の在位年数にしても、果たしてこの「年」という用語が、今のように365日の長さの時間を意味していたのかという点については、かなり疑わしいと思っています。


天皇在位が異様に長いという疑問は、必ず合理的説明が付くはずだと私は考えています。例え同じ漢字や単語だとしても、それらが持っている意味は一つばかりではありません。ある概念を幾つかの表現方法によって現そうとしているのが「単語」であるわけですから、主として使われる意味の順位が変動する事は十分に考えられるからです。また、漢字とは本来は日本人が話す言葉を記録するために生み出された物ではない、という歴史的事実から判断しても、当てはめた漢字がジャストフィットするのかどうかについては疑問が残るような気がしています。何故ならば古代の天皇が100歳も生きたわけがないからです。もちろん、例外的に長寿だった人物の存在まで否定するものではありません。しかしそれは一般的に見て殆ど不可能であると断言出来る事象です。これは人間に限らず動物の生命は物理的制限を受けているのは今も昔も変わらない真理だからです。


「年」が季節を意味していたとしても、春夏秋冬のそれぞれの季節から次第に「二季」を指すようになり「四季」へと変わっていったような気もします。この考えを推し進めたのが「春秋年」という発想だと思います。いずれにしても同じ単語であっても同じ意味ではないのです。


しかし、もしそうであったとしても「伝承」とはテープレコーダーの人間版ですから、「口から発せられた音」を忠実に記録する事こそが最優先されたはずなのです。語り部が伝承を意訳することなどあり得ません。勿論、記録(記憶)違いの可能性は否定できません。伝承の継続とは伝言ゲームでもあるために、内容がオーバーになっていく部分は否定できないと考えています。もっとも、これは文字によって記録するようになっても、同様の瑕疵は起こり得ます。原本を写本していくうちに、書き間違いなどを起こす可能性が十分にあった事を考えれば、原本の完璧な保存はどちらにしても難しいものなのです。日本書紀に多くの異伝が並立して記録されているように、日本書紀の編集者達は「あるがまま」に記録することを選択しているのです。不可解だと思われる点については「後世の学者に期待している」(=後勘校者、知之也)と書かれています。ちなみにこの精神は大日本史編纂にも受け継がれています。


要するに日本書紀の編纂者たちは「年」という「違った意味に使われている同じ単語」を、そのまま正確に記録したのだろうと思うのです。この根拠は、同じ季節が巡ってくるためには360日(くらい)が必要になるのは古代に生きた人であっても当然知っていた事柄だからです。そしてこれは予想通りに現代でも混乱を招いているのです。


ちなみに広辞苑によると以下のようにあります。
とし【年・歳】
@(同じ季節のめぐるまでの間。年に1度の収穫を基準にしたとも) 時を測るのに用いる単位。通常は1月1日から12月31日まで。1年。暦年。ねん。「―の始め」「―の暮」
A太陽暦では、地球が太陽の周囲を1周する時間で、365日5時間48分46秒。
B太陰暦では、月が地球の周囲を12周する時間。
C惑星がその軌道を1周する時間。
D年齢。積み重ねた年月。よわい。「―の割に若い」
E穀物、特に稲。また、そのみのり。万一八「わが欲りし雨は降り来ぬかくしあらば言挙げせずとも―は栄えむ」
F季節。時候。宇津保梅花笠「今年はあやしく―急ぎて、遅き花とく咲き」



今までに数多くの方たちが「紀年」を解読しようとして様々な説を出されています。神功皇后の時代ばかりではなく、神武天皇とはいつ頃の人物なのかと研究をされています。私の場合はこのような説から見ると自分でも非常にアバウトだと思うような捉え方をしています。歴史上からみた似たような事象と思われるものに注目して、これらを比較対照をする事によって紀年を推論してみました。天皇家の歴史は余りにも長いために、その性質もずいぶんと変化してきているのは当然のことです。そのためにも120代以上にわたる全体を見てしまうと、覇者として存在していた頃の天皇家の状態を理解出来なくなってしまうと考えているからです。あくまで創立者を基点にして10代、20代、そして30代くらいまでが、その組織や一族の活力が溢れていた時間であると考えています。


室町幕府や江戸幕府の成立とは、名目上は別にしても実態は一種の革命による新政権の樹立である事は間違いがありません。新政権が成立するという事は、旧政権から「国譲り」を受けた結果であると考えることが出来ます。室町幕府の存続期間は235年間です。そして歴代の将軍数は15人でしたから、1人あたりの将軍の平均在位年数は15.6年になります。同様に江戸幕府の場合をみると、264年間で15人の将軍がいましたので、平均は17.6年間になります。ちなみに鎌倉幕府の場合は源家が3代で滅亡していますから、上に挙げた両幕府の場合とは異質になりますが、それでも141年間で9代というのを平均年数に換算すると1代あたり15.6年になり、殆ど同じくらいの年数になります。つまり、3幕府とも将軍の在位年数の平均は16年前後の誤差のレベルと判断出来るのです。


私の基本的発想は「1人あたりの在位年数が○○年なので、◎◎代だとこの位の年数であろう」という考え方ではなく、15代というある程度の大きなまとまりを一つの単位として、これを適応させて時代を推し量ろうというものです。要するに一人一人を調べるのでは各人の誤差が大きくて「モデル」を見つけ難いと思うからです。しかし、15代くらいの期間を一つのスパンとして判断するのであれば、各人のイレギュラーが相殺し合って「平均的」になってくるはずだと考えたのです。室町幕府、江戸幕府の例をみても、250年間を経過するためには、15代くらいの代替わりが必要になると仮定するのは可能だと判断しています。江戸幕府の例を見ると、宗家直系が4代で途絶え、5代目は兄弟相続になり、8代目は分家からやって来た人物が宗家を相続するというパターンになっています。このように非常にバラエティに富んだ相続形式を徳川将軍家に見ることが出来ますので、天皇家にしても将軍家にしても個々に焦点を当てる事から全体像を構築するのが難しいと思うのです。


そのために250年間の時間を経過するには15代が必要である、という幕府の例をそのまま当てはめてしまう方が、大まかな捉え方としては正しいような気がしています。そうすると、分かり易く西暦600年の推古天皇を起点として逆算していくと、神功皇后の時代とは大体ですが、西暦350年くらいに相当します。神功皇后とはこの時代に存在した人物だと想定する事が出来ると思います。丁度この時代には倭が新羅を攻めたという記録があります。



風土記逸文
美奴売(みぬめ)の松原
摂津の国の風土記にいう、−美奴売の松原。いま美奴売と称するのは、神の名である。その神はもとは能勢の郡の美奴売山にいた。昔、息長帯比売の天皇(神功皇后)が筑紫の国においでになった時、もろもろの神祇(かみ)を川辺の郡のうちの神前(かむさき)の松原に集めて幸いあらんことを御祈願なされた。その時この神もまたおなじく参加して来て、「私も守護しお助けしましょう」といって、教えていうには、「私の住んでいる山に須義(すぎ)の木《木の名である》がある。それを伐採して私のために〔私の乗る〕船を作るがよい。そして、この船に乗って行幸なさるならば、きっと幸福であらせられるでしょう」と。

そこで天皇はこの神のお教えのままに命令して船を作らせ給うた。この神の船はついに新羅を征伐した。
《またはいう、−その時この船は牛のほえるみたいに大いに鳴動してひとりでに対馬の海からここに還ってきて、〔動かないので〕人は乗るすべがなかった。そこで卜占に問うと、「神の御霊の欲するところである」ということだったので、そこにとどめて置いた。》
還っておいでになった時に、この神をこの浦に鎮座させ申して祭り、船もいっしょにここにとどめて神に奉納し、またこの地を名づけて美奴売といった。
〈万葉集注釈〉